<いとし子>




「…エビス。」



自室でひとり
次の打ち合わせに使う資料を作っていたエビスに
五嶺が声をかけた。

「…はい!五嶺様!
なんでしょうか!あ!資料は、あと…30分程待って下さい…」

「それは、急いでない…」
五嶺はつかつかと部屋に入ってきて、机の上の資料を覗き込んだ。
だが、会話はそこで一旦止まってしまった。

「………。」

「五嶺様…?」

「…北の方が…不穏当でねぃ…。」

遠方の支部の様子が、
(五嶺グループにとって)
どうも如何わしい…という話。
こういう事は、早めに手を打って
事が大きくなる前に、収めなければならない。

「では…誰かを目付けにやりましょう…
どこの支部ですか…?」

エビスは机上の棚の、社員名簿を取り寄せながら話を続ける。

その時、エビスの手がピクリと震えた。
五嶺の声が耳のすぐ側で聞こえる。
エビスの肩越しに、後ろから名簿を覗き込む五嶺の体が
かすかに、エビスの背中に触れているのだ。

エビスは
何にも気が付いていないような素振りで
話を続けた。


「…ですと、この二人のうち
どちらかに行かせてはどうでしょうか…」

「そうだねぃ…。じゃあ…こいつを行かせろぃ…」

「…はい。……。」

「……。」

五嶺の体はまだ、エビスに少し触れている。

不自然な沈黙が訪れる。
普段はこういう事は無いが、ときたま、
この不思議な時間がやってくるのだ。

本当にかすかに、五嶺がエビスに寄りかかる時間が。
でも、こういう時エビスは
気づかない振りをしないといけない、と感じていた。
そうでないと五嶺のプライドを傷つけると思ったからだ。

でも、もしも自分に寄りかかって、
(それで五嶺様が少しでも楽になるのなら
もっともっと、寄りかかればよいのに…)
エビスはそんな風に思っていた。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

  (思えば、だいぶ昔の事だな…)

何年か前の桃の節句…
儀礼的に飾られていた甘酒に
興味を示した五嶺様が
近くに大人がいない事をいい事に
その甘酒に手を出してしまった時の事…

(もちろん俺だって、止めたんだけど…)

面白い味だと言って、飲んでいる内に
酔っ払ってしまったのか、ぺたりと座り込んだ五嶺様が
俺の服を掴んで、離さなかった事があった。

具合が悪いのかと尋ねても
首を横に振って、
水か何かを持ってこようかと尋ねても、
何も答えない。
ただ、ぎゅうっと俺の服を掴んで、うつむいているだけ。

俺は、五嶺様はもう酔っ払っているんだ、と思ったから
気持ち半分で
「…疲れたのですか?」と、尋ねたら
五嶺様は
「……、疲れた。」と、答えた。


怒ったように言う事はあっても
こんな風に
呟やくように、弱々しく
(疲れた)と言うなんて
それまでに無かった事で…
俺は、ドキリとした。

でも、考えてみれば
当たり前かもしれない…。
五嶺様はこの小さい身で、
ずぅっと、頑張っているのだから…

…どうすれば、
この愛しい小さいひとの心を
癒せるだろうか
俺は、必死に考えた。

でも、どうしたら良いのか分からなくて…
失礼かもしれないと思いながらも
そぅっと、五嶺様の頭を抱き寄せたのを覚えている。


でも、それは子供の時の話だ…
それにあの時五嶺様は酔っていた…

今の五嶺様を、
そんな風になだめるなんて
出来るわけがない…

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

こういう時はただ、こうして、
このかすかな寄りかかりに、気が付いていないような顔をして、
黙っているしかないのだ。

大概、ふたりの体はすぐに離れて、いつも通りの時間が流れ出す。

だが今日は、長くその状態が続いた。

エビスは何も言えないで、
こうしているのが当たり前、というような顔をし続けていた。
五嶺も何も言わない。

不自然な時間が流れる。
エビスが部下に電話をしているはずの時間。
五嶺が何かの言葉を発しているべきの時間。

「……。」
「!」

五嶺が後ろからエビスの肩にゆっくりと腕を回してきた。

「…そいつに辞令を書くから、台紙と筆の準備をしておくれ…。エビス。」
でも、五嶺はエビスを抱きとめる格好をやめない。

「……??」
エビスはどうしたら良いのか分からなかった。
書き物の用意をするには、
五嶺の腕をほどいて部屋を出て行かなくてはならない…。

(この腕を、ふりほどいて、五嶺様を置いて部屋を出ろって…???)

でも、五嶺の腕は、ぎゅうっとエビスを捕まえているのだ。
エビスは額に脂汗がにじむのを感じた。

(どうして…???なんで、俺に…)
(五嶺様の腕を振り払えと…!?)
(そんな事したくない…)
(なんで、そんな事させるんだろう…)
(俺への意地悪…?)
(俺を困らせて…遊んでいるのか??)

そう思った、ちょうどその時
エビスからはその表情は見えなかったが
五嶺はクスリと笑ったようだった…

「…早くしとくれ。そんなにのんびりしている時間があるのかぃ?エビス…」

「……」
エビスは必死に考えた。

もしかして、さっき寄りかかられた時、気が付いていない振りをして
不自然に黙っていた事が、五嶺様の気に障ったのかもしれない…
それで、こんな事をしているのかも…

…どうして…
どうして、俺はうまく五嶺様を癒せないんだろう
なぜ、自分はこんなに不器用で、
五嶺様の機嫌をそこねてばかりなのか…

いやしかし、気持ちを切り替えなくては…
エビスは、出来る限り明るい作り笑いをした。

「もっ…申し訳ありません。少し気が抜けておりました。すぐ、用意を致します!」

ああ、自分で悲しくなる程の、
そらぞらしく醜い、不自然な言葉と態度…。

くいっと、五嶺の腕を持ち上げて、席を立った。
この選択が間違っていないか…そもそも
うまく自然に振る舞えるのか、
緊張して心臓が飛び跳ねる。
顔が上気する。声も震えている気がする。だが…

「すぐに用意しますので…」
そう言って、にこりと五嶺を振り返ったエビスは見てしまう。
一瞬で消えた五嶺の寂しそうな表情と、その後のとても自然な、
いや、自然すぎて不自然、な微笑みを浮かべる姿を…


(駄目だ…!)

なにが 駄目なのか。
このまま部屋を出る事が、なのか
これから自分がとる行動が、なのか
それは一瞬の感情で、エビスにはどちらか分からなかった。

けれど、考える時間はなかった。エビスは五嶺の方にふらりとよろけ
そのまま五嶺にポスっと抱きついてしまったのだから。


(そんな顔しないで欲しい。)
(俺が側にいます。)
(大丈夫です、大丈夫だから…っ)


でも、口をついて出るのは謝意の言葉…
「も、申し訳ありません!申し訳ありません!!申し訳…」

がむしゃらに謝りながらも、エビスの腕はぎゅうっと五嶺を抱きしめている。
もう自分で訳がわからなくなってきた。
役に立てなくて申し訳ない…
こんな事をして申し訳ない…
そう、こんな事をして…

「……!」
自分で赤面してくるのが分かった。

(何、めちゃくちゃになってんだ、俺…やばい、五嶺様にこんな事して…
どうしよう…叱られる!!ぶたれる!!追い出される!!!!)


エビスが何か言いかけた時、
五嶺の腕が、エビスを抱きとめた。

「ああ、驚いた。お前…何を謝ってるんだぃ?
今、お前がしている事を…、謝ってるのかぃ?」

「もっ、 申し訳…」

離れようとするエビスを、五嶺がぎゅうっと抱き寄せる。

「…!?」

「……。」五嶺は黙っていた。
「あ…の…!?」エビスは混乱した。

「何だ…」
五嶺は、少し不機嫌そうに問い返す。
(何だ、って…五嶺様の方こそ…!?えぇっ?な、なんで!?)

エビスは五嶺に抱き返されて、慌てふためいている。

「…お前から抱きついてきたくせに、うるさい奴だねぃ。
………。しばらく…こうしていたって日は暮れまいよ…」

(さっきは急げというような事を言ってた様な…)
(でも…)
(五嶺様が、こうしていても良いと言うのなら…)





(…どうすれば、このひとの心を癒せるだろうか?)
(その答えは、まだ出せていないけれど…)


機嫌を損ねそうで恐かったので、
エビスは腕に力は入れないで、そっと添えるだけにした。



 (今はもう少しだけ)




 (このままで)











−−結−−





2006.11.18
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